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2015-10-15

立ち止まる

結構久々のブログ更新になってしまいました。
自主企画まであと少し、という時期であり、本当はブログもまめに更新したり告知を頑張ったりすることが理想だと思うのですが、今の自分は自分の人生とか生き方とか、目の前にあることよりも大きなことを漠然と考え込んでしまうような傾向にあって、ある意味殻に閉じこもりがちな日々でした。それはある意味現実逃避かもしれないけど、逆に新しいことに興味が出て来たり、自分に足りないものが見えて来た部分もあります。漠然と考えて生まれて来た、いくつかの断片。

小学校の頃、私は一部の同級生から「いくらちゃん」と呼ばれていた時期があった。小学生の頃、親しい友人以外と話すのが結構苦手で、給食の時間に5〜6人の班になって向き合って食事をする時、その時間私はほぼ無言で食べていることが多かった。話しかけられればそれなりの返事はするけれど、班に親しい人がいなければ、自分から話題を持ちかけたり、また既にあがっている話題や会話の中に入ろうとすることがなくて、給食の間の私は自然と無言になってしまっていた。その結果、「お前は給食の時間大人しくて、ほとんど喋らないから(サザエさんに出てくる)いくらちゃんみたいだな」と言われたことがあって、その班にいた期間はあだ名がいくらちゃんになったのだ。今考えるとあまりセンスのいいあだ名とは言えないが、私は給食の時間自分が喋らないということに気づいてもいなかったし、それが変だとも思っていなかったので、当時その言葉にはとても面を食らった。その時から自分は「大人しい」「人見知り」なんだと自覚しはじめた。

この性質は大人になった今でも、基本的な部分は変わらない。自分が社交的だとは思わないし、親しい人の数も多くない。そして、人との会話の場面でも口数は多くはなく、聞き手だったり受け身だったりすることが多いと思う。でも、自分の性質は「人見知り」という言葉でも説明はできないような
気がしている。確かに社交的ではないけれど、相手によっては初対面でもすごく打ち解けられる人もいたり、一度話があってしまうと、かなり色んな話や深い話をすることもある。

これは大学の頃あたりから気がついたのだが、大学ではグループワークという形式の授業があり、その授業ごとに同じ受講者同士でディスカッションをすることがあったのだが、私はこのような場面では、意外と自分からすすんで話題をふったり、話を進めたりすることも多かった。そのような時の自分は初対面の人に緊張するということもないし、初対面の人と話せないということもなく、むしろその場で初めて会った人と自然と会話をして、その中で相手の情報を少しずつ引き出して理解して行くのが楽しいとも感じていた。そして私は同時に人見知りの性質も持ち合わせているからか、初対面で「この人は話が苦手そうだ」と感じた相手の時は、その人のテンポ感に合わせてじっくり話をしていく技も覚えた。グループワークとか、やることが決まっていて、話題のフォーマットが存在している場面だからかもしれないけど、明らかにその瞬間の自分自身は「人見知り」ではなかったと思う。

しかし、大学を出てからでも、私は幾度となく「人見知り」の自分を経験して来た。まず職場に配属された時、私は職場の人の中で勝手に萎縮してしまい、休憩時間に職場の人とご飯を食べる時ほとんどまともな会話ができなかったし、そのせいでその休憩の食事の時間が苦痛だった。仕事中であれば、仕事についての話を聞いたり、質問に答えたりしていればよかったが、休憩中はその用意されたフォーマットが何もなくなって、何を話していいか分からない。今でこそ私が何者であるとか、どんな性格や話し方だとか、職場の人はだいたい分かっているだろうけど、その時はまだそのような情報がお互いになく、その状態で何を話せば良いか分からず、私は無言になっていた。小学校の時の給食の時間を思い出した。
また最近では、ライブ会場でもその時によって私の「人見知り」が発揮される。というか、音楽活動でライブハウスに行く時、たいがい私は人見知りである。まず出演者の方々、そしてお客さん。たいがいにおいて私は愛想がよくないというか、多分少し斜に構えたように感じ悪く映ってしまっている気がする。(誰かから言われたわけではないが)それは機嫌が悪いとか楽しくないとかではなく、ライブ会場ではいつも内心そわそわしてしまうのだ。会場から開演の間、演奏前、演奏後、終演後の物販の時間、その日の雰囲気にもよるが、たいがい私はそわそわしている。なんだか居心地がよくない、というか、自分がその空間にどう接していいのか、どうゆう態度でいればいいのか、分からない。その結果いたたまれなくて、最近は物販もろくにせずにライブ会場を早く立ち去ることもある。そうかと思えば、リハーサルから出演者と会話が弾み、そのまま気づけば終演になってしまうくらい、その場に馴染んでしまうような日もある。私は自分が人見知りなのかなんなのか、未だに判断しかねる。


話がだいぶ脱線して長くなったけど、最近は例えて言えばそうゆうことを深く掘り下げて考える時間が増えた。約25年間、自分という人間をやってきてるわけだけど、未だに解明されていないところがあったり、また驚くほど世間の平均から遅れをとっているようなところに気がついて、愕然としたりする。
私は本を読むのは好きだけど、今まで小説というものをほとんど読んでこなかった。それは今まで小説に興味をもつ魅力的なきっかけや魅力的な本に出会っていなかったからかもしれないが、そうして縁遠かった小説に惹き付けられるような出会いが重なり、私は今小説をすすんで読めるようになった。まず自分の中で小説は以前まで学生時代の国語の教科書や問題集の中のイメージにとどまっており、その当時の自分にとってそれらは「問題」を解くために与えられたものであり、出来る限り速く短時間で読み、修飾部などの不要なものは読み飛ばして重要な部分だけ深く読む、ということを常に要求されていた。そのためか、学生の頃の私は小説文は物語の全ての時系列ではなく断片的にしか読んでおらず、面白いものとも思えていなかった。国語はとても苦手で、特に小説文の読み解きは周りの人よりも劣っている意識があった。文章を読んでも一回では頭に入らず、何度も同じところを読み返したりしていたが、限られた時間制限の中でそれも出来ない状況で、よく理解できないまま問題を解いていたので、ますます小説を楽しむどころではなかったのだ。

しかし今の私には国語の問を課されることも無く、ゆっくりと自分のペースで読むことが許される。分からないところを何度読み返しても怒られないし、自分に合わない本やあまり好みではなかったものは自分の意志で途中でやめることもできる。今更ながら小説を読む楽しさに目覚めるなんて、中学生にも笑われそうだが、今はそんな新しい世界に出会えたという新鮮さで私の目の前の世界は輝いている。

少しずつ自分というものをよい方向に変えて行きたいなと思っていて、今まで人から言われたり忠告されたことについて、頷けるものやそうでないものも含めて、全部思い返し耳を傾けてみて、それについて一度考えてみることが必要だな、と思っている。その結果、小説を読み始めたり、新しい音楽を聴き始めたり、なんだかちょっとずつ、世界と歩み寄っていきたい気持ちが強まっている。人見知りの自分は、相手や場の雰囲気によって現れたりそうでなかったりするのだが、それを無理にどんな場面でも社交的に近づこうと思う必要も無い気がする。ただ、卑屈になって世界から閉じてしまうのではなく、人見知りの自分が出ている時、うまくその世界の中に自分を存在させる方法を見つけたいなと思う。社交的な人は魅力的だが、自分が常にそこを目指すのではなくて、人見知りしている自分の心境をその場面で素直に表現して、自分はその世界が嫌いなのではなく、うまく当てはまる方法が見つけられていない、ということが伝えられたら、そしてそれを自分でも理解することができたら、今よりもっと生きやすくなるのかなと感じる。


なんだか、結局意味の分からない投稿になってしまった。笑

色々考えていることはあるんだけど、文章にするのが難しくてなかなか書き出せなくて、なんとか書いてみようとしたのですが、やっぱりうまく行きません。しかしこれも、ただ無言でいるのではなく世界と歩み寄ろうともがいてみた結果なのです。笑

今はいずれにせよ、目に見えて前進していくのではなく、立ち止まって考えている時期だと思います。この時期は重要であると思うし、ここで自分が今まで後回しにして来たことにちゃんと向き合って行きたいなと思います。そんな煮え切らない長々とした近況報告でした。
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プロフィール

神楽サティ

Author:神楽サティ
神楽サティ(かぐらさてぃ)と申します。
シンガーソングライターの端くれをしています。R&B、Rock、歌謡曲などを含んだ「ポップス」を目指して、現在ライブハウスで活動中。主に気まぐれなつぶやきですが、よかったらのぞいていって下さい。

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